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ミスター・ワンダフル (プロレスラー) : ミニ英和和英辞書
ミスター・ワンダフル (プロレスラー)[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ミスター・ワンダフル (プロレスラー) ( リダイレクト:ポール・オーンドーフ ) : ウィキペディア日本語版
ポール・オーンドーフ[ちょうおん]

ポール・オーンドーフPaul Orndorff、本名:Paul Parlette Orndorff Jr.1949年10月29日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーフロリダ州ブランドン出身。
ボディビルダー顔負けの鍛え抜かれた肉体を武器に、NWAWWEWCWなど各団体でトップスターとして活躍した。"ミスター・ワンダフル"Mr. Wonderful)のニックネームでも知られる。日本では、その鋼のような肉体から "鋼鉄男" の異名を付けられた。
== 来歴 ==
タンパ大学時代はアメリカンフットボールで活動。NFLオークランド・レイダーズで活躍したのチームメートであり、オールパーパス・ヤードで2000ヤードを獲得、21タッチダウンを挙げた。卒業後、1973年NFLドラフト12巡全体289位でニューオーリンズ・セインツに指名されたが、NFLへの出場機会を得ることはできず、カンザスシティ・チーフスでも出場を目指したが果たせなかった。1975年にはNFLの対抗リーグであったのでプレイしている。
その後、地元のフロリダに戻ってヒロ・マツダの門下生になり、1976年にプロレスラーとしてデビュー。デビュー後は南部エリアを中心に活動し、1977年5月29日にテネシー州メンフィスジェリー・ローラーからNWA南部ヘビー級王座を、1978年5月29日にはトライステート地区アーニー・ラッドからNWA北米ヘビー級王座を奪取している。
その後はジム・クロケット・ジュニアの管理するNWAミッドアトランティック地区に参戦。1978年12月26日、ジミー・スヌーカとのコンビでバロン・フォン・ラシク&グレッグ・バレンタインを破り、同地区認定のNWA世界タッグ王座を獲得した。1979年10月にはロン・フラーが主宰していたアラバマSECWにて、タンパ大学時代の盟友ディック・スレーターと組みNWAサウスイースタン・タッグ王者にもなっている。
1980年代に入ると、トライステート地区の後継プロモーションであるビル・ワットのMSWAを主戦場に、1981年7月4日にジェイク・ロバーツからミッドサウス北米ヘビー級王座を奪取〔。以降も同王座を巡り、テッド・デビアスディック・マードックマイク・ジョージボブ・ループら強豪と対戦した。1982年からはジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに進出。バズ・ソイヤースーパー・デストロイヤーマスクド・スーパースタートミー・リッチらを破り、同地区認定のナショナル・ヘビー級王座を4回に渡って獲得するなど、次期NWA世界ヘビー級王者の有力候補に挙げられた(同時期、リック・フレアーNWA世界ヘビー級王座に再三挑戦している)。
1983年末にWWF(現・WWE)へ引き抜かれ、ミスター・ワンダフルのニックネームでナルシシスト系のヒールとして活躍。1984年よりスタートしたWWFの全米侵攻の重要メンバーとなり、ロディ・パイパーカウボーイ・ボブ・オートンと悪役トリオを結成する。1985年3月31日のレッスルマニア第1回大会のメインイベントでは、パイパーとのコンビでハルク・ホーガン&ミスター・Tと対戦した。その後、この試合の結果(セコンドのオートンとの同士討ちによる敗北)がもとでパイパーと仲間割れしてベビーフェイスに転向、旧敵ホーガンのタッグパートナーとなる。その抜群のルックスで女性ファンからの絶大な支持を獲得し〔DVD『WWE レッスルマニア21』DISC-3(2005年、ジェネオン・エンタテインメント)〕、WWFナンバー2のポジションに就いた。
しかし、ホーガン人気への嫉妬心からの裏切りというストーリーのもと再びヒールに戻り、ボビー "ザ・ブレイン" ヒーナンを新しいマネージャーにホーガンとの熾烈な抗争を再開する。特に、1986年8月28日にカナダオンタリオ州トロントエキシビション・スタジアムにて7万4000人の大観衆を集めて開催されたザ・ビッグ・イベントのメイン戦や、1987年1月3日のサタデー・ナイト・メイン・イベントで行われたスチール・ケージ・マッチは、WWE史に残る試合として知られている。
1987年中盤より再度ベビーフェイスとなり、旧マネージャーのボビー・ヒーナンがマネージメントするリック・ルードらと抗争し、同年11月26日に行われた第1回サバイバー・シリーズでは、旧敵のホーガン、バンバン・ビガロドン・ムラコケン・パテラとチームを結成したが、過酷な全米サーキットを通して首を痛めたこともあり、徐々にフェードアウト。WWF離脱後は1988年のセミリタイアを経て1990年WCWに登場するも、短期間で退団。その後は散発的にジム・コルネットのSMWなどのインディー団体に上がった。
1993年よりWCWに復帰し、空位となっていたWCW世界TV王座を獲得した他、WWF時代の後輩 "プリティ" ポール・ローマとのタッグチームプリティ・ワンダフル」でも活躍。1994年7月17日にカクタス・ジャック&ケビン・サリバン、同年10月23日にザ・パトリオット&マーカス・バグウェルを破り、WCW世界タッグ王座を2回奪取している。首の怪我の悪化により1995年に引退してからは若手育成機関WCWパワープラントの教官を務める一方、ロード・エージェントとしても活躍し、極東担当を任されていたこともある。
日本には1980年代、WWF入りする以前に新日本プロレスに4回来日した。1980年10月の初来日時は長州力藤波辰巳に勝利し、アントニオ猪木とのシングルマッチでも善戦。新間寿全日本プロレスに転出したスタン・ハンセンの後釜候補に、アドリアン・アドニスと彼の名を挙げていた。しかし、2回目の来日となる1983年4月21日、蔵前国技館にて前田日明のヨーロッパ凱旋帰国初戦の相手を務め、フライング・ニールキック、リバース・アームソルトの連続技にあっさりと敗退。試合後、首を押さえながらレフェリーに「なぜ、あんな危険な技を使わせるのか?」と抗議する一幕も見られた。同年7月の来日時の再戦でも前田のジャンピング・ニーアタックを食らってのエプロン・カウントアウト負けを喫するなど、前田の売り出しアングルに一役買ったものの、アメリカマットでのスケジュールが多忙だったこともあり、新日本プロレスに定着することはなかった。1984年に前田がWWFをサーキットした際も、親身になって前田の面倒を見ていたという〔『Gスピリッツ Vol.32』P38(2014年、辰巳出版、ISBN 4777813304)〕。
1995年にWCWでIWGPヘビー級王座をかけてグレート・ムタと対戦したことがあるが、新日本プロレス非公認であったため公式にはタイトルマッチとして扱われていない(ベルトを保持していたのはムタではなく武藤敬司であったため)。また、エージェント時代の2000年にはムタのWCWサーキットをプロデュースした。
2005年には1980年代のWWFにおける功績から、WWE殿堂に迎えられている。インダクターはかつてのマネージャーであるボビー・ヒーナンが務めた。
2014年8月11日、WWERAWで行われたハルク・ホーガンの誕生日祝賀会に、ジーン・オーカーランドジミー・ハート、リック・フレアー、ロディ・パイパー、ケビン・ナッシュスコット・ホールらと共に、ホーガンとゆかりのあるレジェンドの一人としてゲスト出演。観客の声援を煽ったり、ディーヴァにキスを求めたりなど、往時と変わらぬパフォーマンスを見せた。
== 得意技 ==

* パイルドライバー
* パワースラム
* ドロップキック
* エルボー・バット
* クローズライン
* カーフ・ブランディング

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ポール・オーンドーフ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Paul Orndorff 」があります。




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